蚤の市を訪れた。一通り見て回った昼下がり、賑やかし大道芸人がいた。
カラフルなバルーンアートを大人たちに配っていたので受け取った。長い持ち手の先に、黄色い花が咲いている。黄色のバルーンにはニコちゃんマーク。私はほくほくとした。
友人のいる方を振り返る。
彼女らは、何の役にも立たないけれど、日々のささやかな幸せを生み出すものが好きな優しい人たちだ。カスタネットを毎日カバンにしのばせて、タイミングがあることに打ち鳴らして楽しい気分になっている。周りに人がいようがお構いなしだ。一人ははたからみれば邪魔以外の何ものでもない、長すぎるネイルやデコりまくったスマホケース、大ぶりなアクセサリーを飽きもせず毎日身につけている。もう一人は、たまに学科の人たちにお菓子を配り歩いている。ポップなモチーフが大好きで、優しい色が好き。
そんな傍若無人な、理解はできないけれど楽しそうだからまあいいかと思わせるような愛嬌をもちあわせる友人たち。
そんな彼女らだから、バルーンアートも、かわいい〜っと愛でるのだろう。何なら名前までつけて、元気よくふりまわしながら帰るのだろう。
そんな私の見通しは、間も無く打ち砕かれた。
彼女はその場が解散してすぐに、風船いらなーい、と、捨てたがった。
かわいくデザインされた花と葉、茎の部分のバルーンを外す。
目を疑った。
かわいい、無駄なものが大好きな人たちじゃなかったのか。
バルーンアートすきじゃないの、とたずねると、「処分に困る」と一言。
何を言っているのだろうか、理解できなかった。
風船なんか針で一突きすればしなびた袋に成り果てる。場所も取らない。
かさばるカスタネットや、ぬいぐるみ、彼女が好んで送る手紙の方がよっぽど捨てづらい。
それらとバルーンアート、何が違うのか、判断基準はどこなのか、と聞いてみる。
「カスタネットは楽しい気分」
「手紙は読み返すことができる」
「風船は処分に困る」
全く理由になっていない。意味がわからない。
困惑する私は何度か角度を変えて質問してみるが、同じことしか言わない、話が通じないので対話を諦めた。
「共感はできないけど理解はできる」
これを積み重ねることで他人と分かり合えるのだと思っていた。
理解しようとする姿勢さえ拒まれてしまったら、どうしたらいいのかわからない。
彼女については、理解できない気持ち悪さを飲み込んだまま、不可解な存在として受容しなければいけないのかもしれない。
それとも彼女は、他人とわかりあうことなど求めてはいないのだろうか。
その場その場で楽しいことができたらそれでいい、というタイプなのだろうか。
だとしたら私とは合わない。今後何年かたてば、よほど向こうからの連絡がない限り、すぐに縁は切れそうだ。
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