はたちのにっき


 なってしまったなあ。二十歳に。いや、時は来た、それだけだ、という感じもある。ぼーっとしていたって時間は流れる、知らないうちにある地点を通過したに過ぎない。

高校生の頃よりずいぶん精神的に大人になったような気がするけれど、やることは変わらず、「おだやかな生活の追求」それだけだ。

しかし、大学生になって、繊細だから書くしかなかったのだと思っていたのが、「書いたから繊細だった」のだという気づきがますます実感を得られるようになった。要するに,日常の仔細なこと、気づき、感情、そういうものを見逃して生きている方が、生きやすいのだ。それは現在に目を向けず前を向くことと同義で。こう書くと、どっちもどっちでいいじゃん、という風にとれるが、実生活を生きる者は皆、ある程度いろいろ見逃して生きている。後者だった高校時代の私が異常。


 二十歳になる。歳を取る。

歳を取ることを私はネガティブにはとらえたくない。どうせ生きるのなら自分なりの楽しさに包まれて、どうせ歳を取るのならそれだけの経験知(あえて知と言う)を身につけたい。

大人になってできることがふえたのがうれしい。何をするにも保護者の同意書書いてもらってね〜だった時代が、やっと終わる。なんて素晴らしいことだろうか。

ここまで書いてわかってもらえたかもしれない、私は昔に比べてかなりポジティブになっている。前を向くようになっている。一つ一つの感慨に囚われることがなくなった。こうやって文章を書くなんてこと、こうした節目の時だけでいい。日常生活からこんな感慨に浸っていても、生きづらいだけだ。

こうしたことから、文章をほとんど書いていない。そんなに文章力が落ちていないように感じるのは、日々Twitterで細々した自己分析などを無限に綴っているからだろう。

 自己分析といえば、最近、やっと私という人間の存在を信じられるようになってきた。関心が外部に向くようになってきた。友達を作ろう、と、思えるようになってきた。自分でいうのもあれだが、これは本当にすごい進化なのだ。一人でいるのはそれはそれで、とてつもない贅沢である。他人といたら他人に向けざるを得ない思考のアンテナを、目の前の事象に向けることができる。食べ物などを前にする時は、依然そっちの方が好きだ。その証拠に、二十歳の誕生日当日という日に、私は一人でユニバに来ている。今ポップコーンを2カップ食べた。ベンチで涼みながらこの文章を書いている。この頃秋めいてきて、つい先日まで肌を焼いていた日差しは影をひそめ、心地よい風が白いシャツの隙間を通っていく。もう、秋。?おかしいな、蒸し風呂のような気候は10月ほどまで続くと絶望的な宣言を8月上旬のテレビは流していたはずだが。

 ……お腹が空いてきた。サンドイッチてきなものを買って食べようか。夜には幼馴染と宅飲みもしくは夜カフェに行く予定があって、彼女はバイト終わりで夕飯を食べていないはずなので、条件を合わせるために私も夜まで食べないでおこう……としたのだが。現在時刻、17時半。12時すぎにささやかなブランチと、ケーキの残り1かけらを食べたきりなので、そろそろお腹が空いてくる頃だ。軽食を安く済ませる別の手もあるにはあるが、この浮かれた音楽と人々の雰囲気のなかにいると、おいしくて目にもたのしいフードがほしくなってくる。パークを出るまであと1時間。……どうしよう。アトラクションにもう一つぐらい乗りたかったが、予想以上に外にいても涼しく快適で、せっかく確保したベンチから動きたくなくなっている。一人ユニバで、浮かれ騒ぐでもなく、黙々とフードだけを満喫し、ベンチに腰掛けて景色と音楽を楽しみながらつらつらとスマホのメモに文章を書く。こんな贅沢があろうか。友達といたら絶対にできないことだ。


↑ついでに、今日の足元。最近足の爪を黒く塗っている。黒いサンダルからのぞく黒のラメラメ、可愛くて強いだろうが。

久しぶりにこういう、徒然と、思ったことをその時そのまま文にする、ということをした。まあ楽しい。たまにはいいだろう。二十歳になった私は生きる。死にたいなんてもうそうそう言わないだろう。生に執着して何が悪い。みっともなくて結構。もうあの偏狭で完璧主義な私とはおさらばなのだ。生きて、たくさんの悲喜を(ほどほどに)味わって、イケオジならぬイケオバをめざすのだ。

そういう感じで、今日も筆を置く。

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