某人に寄せる混沌と哀願の空リプ

久しぶりにこのアプリを開いたなという気持ちである。数えてみると実に約三ヶ月ぶり。そういえば最後に書いたのは、高校を卒業した時。一つの節目だから、感慨をなんとなくまとめておきたいなと思ったからだった気がする。結局それも筆が乗らなくて下書きに眠っているけれど。

受験を経て、風船が萎むように創作及び文を書くことに対する意欲を失った私がなぜ、こんな衰えた文章力でこんなものを書いているかというと、敬愛する人のとある記事を読んだからである。それが、あまりにも、私にとって衝撃的で、悲しかったから。

以下、その人物について、自分でもネトストじみているとは思っているため本人に見つかりたくはない(先輩は私のブログなど見ないと思うが)ので、特定はしないようお願いしたい。その人については私の過去の記事に記述がある。

 おかしいなと思ってはいたのだ。最近、あの人のTwitterの更新頻度ががくんと減った。以前は推しへの叫びや、イラストや、友人のツイートのリツイート、空リプ、などなど、頻繁にTLで見かけたのに。私はその先輩から流れ出る言葉のすべてが好きであったので、積極的に追いかけ、ブログも数ヶ月に一度は更新されていたので、その度にサイトを訪れ、ついでに過去の記事を読み返したりしてあーやっぱり良い文章だな、好きだな、などと浸っていた。それが、去年の秋頃からだろうか。徐々にツイートの頻度も減り、一抹の期待と共に訪れるブログもぱったりと更新されなくなった。不思議に感じはしたものの、先輩は先輩で色々あるのだろう、恋人が出来て私生活が充実し出したとか、他の趣味に打ち込んでいるとか、と思った。考えこんでも直接連絡を取れるわけでもなくどうにもならないし、それにちょうど私の大学受験が佳境に入ってきた頃だったので、私はしばらくそのことを頭から消していた。

 そうして現在。私は私で創作を続けるか否か、文章を書くということの意義等々思い悩んでいた。そこで、とりあえずこの場所に帰って来てみたところ、同じくここに存在した先輩のブログのことを思い出したのだ。ブログ名も思い出せないくらいには記憶は薄れていたが、更新されていれば読み逃したくないとTwitterから一生懸命遡った。
そして、見つけた。未読の最新記事。更新日は、ちょうど私が試験を受けていた日あたり。これは読めていなくても仕方がないと、久しぶりの先輩の文章にわくわくしながら、記事を開いて。

思いがけないその内容に、一瞬、固まった。

始まりはこう。

“最近、文章を書いていない。”

やはりそうだったのだな。何かあったのだろうか。
…………。 

読み進めるほどに、かの人の心を覆うどうしようもない無気力感、諦め、希死念慮、そういうものが淀んだ泥水の如く私のなかに沈殿していった。

この感じ、既視感がある。私の中学時代と似ている。とりわけ不幸でもない、かといってここから抜け出すことも出来ない、

何もない

動けない

ただ早く終われと願うだけの日々。  

とてもよくない。直感した。これはとてもよくない状態である。
いわば、深い泥濘に足をとられて、助けを叫ぼうにも周りには誰もいないようなこと。私の声は届かない。聴いてもらえない。それ以前に喉がおかしくて、声が出ない。ああ、こんなことならいっそ早く沈みきってしまえ、胸、肩、頭まで、早く、泣いて訴えようにも現実はそのままである。沈むには何年もかかるから。自分が今まで過ごした年月のざっと五、六倍は。この身体の健康さが酷く恨めしい。もう嫌、嫌だ、強く思う、念じる。それでもそこにい続けるしかない。身動きが取れない。そうして、早く沈みたい、早く、早く、と永遠に願い続ける。そういう状態。
私は知ったのだ、その泥濘を抜け出すには、強制力が必要だと。私の経験上、そういうのは、屈強な司令官が出てきて、今すぐお日様の光を浴びながらグラウンドを走りなさい、へとへとに疲れたらご飯をお腹いっぱい食べてインターネットもせず眠りなさい、それを一ヶ月続けなさい、と有無を言わさず命令してくれたら、治る類のものなのだ。病気の鬱とどう違うのかはよくわからないけれど。
でも、大人になるとそれが難しくなる。誰もそこまで他人に関心を払わない。小学校の先生みたいに手取り足取り言ってくれない。命令を聞く義務もこちらにはない。
だめなのだ、それじゃあ。自分の意志の範疇外から伸びる手が必要なのだ。


だからといって、私に何ができよう?

さっき書いた通り、私がしていることはネトスト同然。一度顔を合わせたことがあるとて、向こうは私の存在すら覚えていないだろう。
何もないというのは本当に毒だ。現状を動かす他者もいないから尚更抜け出せない。先輩の文章を読んでわかった、これは、画面上の言葉如きで変えられる現実じゃない


“創作から離れても息ができることを知ってしまった”

“作品を作るのは自分ではなくてもよいことを知ってしまった”

 涙が出そうになった。共感できることだ。一介の創作者以下である私でも、誰も読まないオリジナルを作って何になるのか、自問自答したことはある。しかし、好きな物書きさんからこういう言葉が出るのがどれだけショックか。

確かにそうかもしれない、でも。


……私が悪いのだ、もっとマシュマロを熱心に送っていれば、あなたの作品が好きだと伝えていれば、いやでも、支部のブクマだって十分すぎるほどついているのに、?

 どうすることが正解なのかわからない。書いてください、と言って、書くわけがないだろう。創作者は作品を生み出す機械ではない。今更、あなたの作品が好きです、と伝えたって、せいぜいありがとうという言葉を添えられて見送られるだけだろう。

 でも、死なないでほしい。理由なんてなく。「死なないでほしい」なんて、滑稽で陳腐で無力な言葉だと、自覚しつつも言ってしまう。文中に「死にたい」「終わらせたい」という言葉が何度も出てくるせいで、不安になってくるのだ。

わかっているのだ、希死念慮を抱く者が発する「死にたい」に特に意味なんてないと。彼らは息をするようにその言葉を口にするのだ。私もそうだった。高校二年の頃、親しかった友人に何度も何度もその言葉をこぼした。本当に馬鹿だった。言われた側の気持ちも知らず。そんなことを言われたら、本当に死ぬわけがないと、わかっていても、死なないでと泣きたくなるものなのだ。それが死を避ける生き物としての本能で、そこに論理なんてない。(それ以来私は死にたい時は誰もいない鍵垢で言うようにしている)

 でもその点に関してあの人に落ち度は全くなく(Twitterで共有もしていないし)、むしろ自分が勝手に見て落ち込んでいるだけである。


感情的になってきた。そろそろ終わらせたい。自分語りも多すぎるし、長くなってしまった。

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