ただ、一さいは過ぎて行く

この頃、感情を殺すことが増えた。
仕方のないことだ。受験生なのだから。
受験生というやつは、今を今として生きず、合格する(するかもわからないが)未来のためだけに生きる、いわば生きながら死んでいるような存在であるのだと、最近になって気づいた。
アメリカの大統領の名前、古代中国の軍事制度、そんなものを反芻しながら、嬉しいこと、楽しいこと、すべてを素知らぬ顔して通り過ぎて行く。

先日迎えた十八の誕生日の際も、びっくりするほど何も感じなかった。私は十七歳ではなくなったらしい、結局半分ぐらいは死んだ十七歳だったなあ、今日から十八禁を読めるのか、ぐらい。ケーキを買ってもらって、ご丁寧にロウソクをたてて、部屋の電気を消して火を吹き消した時さえ、頭にあったのはこのあとの塾の時間に間に合うかどうかということだった。

ただ空腹にならないためだけに、カロリーメイトを自習室で、音を立てないように注意深く袋をはさみで開けては食む夜。食事の喜びなんてものは忘れてしまった気がする。これが人間の本来のあり方かもしれないが。
「食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのだ」


こう思わなくもない。貴重な十八の半分をこんなことに費やしてしまっていいのだろうかと。
若い感性を殺して一年間忍んだとしても、それが報われる保証なんてないのだ。
来年の春に来たる(筈の)すばらしハッピーな日々の先払いにしては、あまりにも代償が大きすぎる気がするではないか。
友人は、AO入試とやらで八月の始めには受験を終えている。彼女のInstagramには、夏の海で船に乗って楽しむ様子が投稿されていた。彼女は今を生きている。

なぜだ?

自分で選んだ道である。そう思ってはいるが、その実そうではない。
それ以外の道なんてなかった。
親の圧力に抗いきれるような強い私ではなかった。
それに、受験をしなかったとして、この先自分でやっていける自信も能力もない。
小学生の頃から、周りの子たちよりは、ある程度の地頭はあると自負していた。(まあ、高校に入って、そんなくだらない自覚は潰れたけれど)
あられもない言い方をしてしまえば、勉強が出来るように生まれてしまったのだから、特に賢いというわけではなくなっても、勉強をし続けなければいけないということだ。

つまるところ、生まれ。親ガチャ。

しかし、この生き方でよかったと思うことだってある。
深く考えることが好きなので、倫理などはやっていて面白い。気に入りは荘子。この世界がみんな胡蝶の夢だったらいいのに。
世界史も、受験が終わってからそれに関する本を読み漁るなどしてみたいと思う。ティムール朝なんか強くてかっこいい。最近ではインドの国産綿であるキャラコで作った服が可愛くてよく調べている。ヨーロッパは帝国主義があまりにも……で嫌いになったけれど、中世の宗教改革時の協会の無茶苦茶ぶりとか見てて楽しい。

文章書くの飽きてきた。そろそろ終わりにしてもいいかな。また推敲するから。(誰に言い訳をしているのか)



結論、早く受験おわれ。




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