幼稚園や小学校の頃、何かにつけて歌を歌わされた記憶は、誰にでもあるのではないだろうか。地域の老人ホームに赴いて歌ったり、知らない大人を招いて講演をしてもらったお礼に歌ったり、運動会の歌、季節の歌、帰りの会の歌なんてのもあった。卒業式なんか最たるものだ。
ああいうとき、聞いている大人たちがみんな、揃いも揃って感動しているのが、子供心に不思議だった。
だって、小さい子どもが歌う歌に、心なんか微塵も込もっていない。
みんな歌っているから歌う、先生に教えられたから歌う、なんかしらんけど歌っている。そんなものだろう(テレビで特集されるような天才子供歌手なら別だが)。
それなのに、先生や親は皆、音楽番組で熱唱する美声のシンガーを眺めるより何倍も聞き入って、目を潤ませていた。幼いくせに幼い自覚のなかった私は、こんな歌聞いて何が楽しいんだろうと思っていた。えらい大人様へのお礼をこんな歌なんかで済ませてしまっていいのだろうかなんて考えていた。
しかし、年を重ねるにつれ理解できるようになった。
子供っていうのは、大体何してても一生懸命やってるように見えるらしい。
それに気がついたのは、『コタローは一人暮らし』というドラマを観た時だ。春クールの土曜日の夜にやっていた30分程度のドラマで、関ジャニ∞の横山さんなどが出演していた。あらすじとしては、諸事情により幼稚園児にしてアパートで一人暮らしを営むコタローと、その隣人であり売れない漫画家の狩野(横山さんの役)が関わっていくという話だ。ドラマはコタロー役の子役さんが、お目目をくりくりさせてサムライ風の喋り方をしているのが非常に可愛かったのでぜひ見てほしい。原作漫画も、かなり売れているようだ。
と、布教はこれくらいにして。
ドラマの最終回で、コタローが幼稚園の発表会に出演するシーンがあった。
前述した諸事情というのが、親に虐待を受け育児放棄されたので一人暮らしを余儀なくされたというもので、園の周りの子どもが保護者に見守られながらいきいきと合唱しているなかで、見に来てくれる保護者をもたないコタローは少しばかりしゅんとしながら歌っていた。普段は気丈に振る舞っているコタローの寂しそうな目に心がきゅっとなったのを覚えている。子役ってすごい。
しかしそこで、なんやかんやコタローの面倒をみていた狩野が駆けつけ、その他のコタローに関わってきた大人たちもやってきて、保護者の列に並び、見にきたぞー!と言わんばかりにコタローに合図する。
狩野が「コタロー、口開いてないぞ!」のジェスチャーをすると、それに気づいたコタローは、目を見開き、コクンと頷くと、口を一生懸命大きく開いて、子どもたちの中でも一際大きな声で歌い始める。表情は変わらなかったが、明らかに目に輝きが戻って、それを眺めている狩野ら大人はうるっときてしまう。
これを見て私は人生で初めて、何の変哲もない「子ども」に涙した。
そっか、そういうことか。大人というのはこういう気持ちだったのか。
大人、特に長く子どもの面倒を見てきた者にとっては、
その子が存在してくれるだけで幸せなのに、一生懸命(本人はそう思ってなくてもそういう風に見える)何かをしているところを見るというのは、本当に胸がつまって、「ああこの子がいてくれてよかったなあ」と目頭が熱くなってくるものなのだ。
昔の私が、まさかそんなことを周りの人間が思っていたなどと想像することができただろうか。それなりに恵まれて育ってきた自覚のある私だが、たぶん、子どもの想像力じゃそんなことはわからないのだろうと思う。なぜなら子どもだから。そういう、すべて年齢のせいにしてしまえることも結構ある、ということは最近私が学んだことの一つである。
しかし、周りの大人が本人にそれを伝えないことも一因ではないのか、とも思うのだ。
やっぱり大の大人、他の人に聞かれたら恥ずかしいとか、将来この子が思い出した時恥ずかしいとか、色々あるのだろう。
でも、やはり、それを言葉で伝えてこそ「その人が大事だ」ということは伝わるのではないか。
そんなこと友達にさえ言えたことのない私がえらそうに言うことでもないが。
子どもにそのようなことを伝えることは、子どもが成長していくうちで自信を失った時、必ず支えとなる。
暗闇の中の灯りとなるし、愛されて育ったんだという自覚が現代の青少年の問題点である自己肯定感の低下を防ぐ。
だから私は、まだ何もわからないが、将来そういう子ができたなら、いっぱい伝えていきたいと思うのだ。あなたがどう思っていようと存在してくれるだけで私は嬉しいということ、できることならあなたのすべてを肯定したいこと。
と、なんとなく決意をしてみる。
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